2018年 11月 16日
松浦佐用姫の出生地
鏡山の展望台から市街地を望む
古代においては この眼下まで海辺だった
この赤水と言う所に
その名残の「船繋ぎ石」が存在して
すぐ上の方に
今は苔蒸す「佐用姫」を祭った祠が存在する
時は今から1471年前の出来事
朝鮮半島の任那・百済救済と新羅討伐のために
朝廷より 派兵された若き将軍「大伴狭手彦」が
現在の唐津に滞在中に 佐用姫と恋に落ちて 契りを結んだ
出航に際して「佐用姫」は この山頂より袖を振って
朝鮮半島に向かう軍船を 狂わんばかりに見送った
恋焦がれた「佐用姫」は 山を駆け降りて
この地の果ての 呼子の加部島まで
小船で追ったのでしょう
泣き崩れて石になったと・・?
この加部島が終焉の地だろうか ??
生誕の地を候補とする
座主の生家で亡くなった ?
信憑性ありますが
はたして何処で・・
推測してみれば
海の彼方の船影を見た「佐用姫」は
小船で更に壱岐の方に向かい 追いかけました
強風で小船が転覆して
伊万里湾の奥に流れついた
地の人が塚を造り葬った
古来から「佐代姫神社」が存在する
鏡山の南面に「佐用姫の」古墳が在ったとか
さてさて真実は・・
「佐用姫」は実在したのか
それは文献や史跡からも 間違いない実在の人物です
では 何処の出身だったのか
有力なのが 現在の厳木町に(きゅうらぎ)に存在したと言われる篠原村ですが
他にも3箇所あります
(1)厳木
(2)七山・藤川の芝原
(3)原(はる)
(4)平原(ひらばる)の座主
候補地の概略の方角を 手書きですが書いてみる
距離は直線距離で 古代の道筋からすると
更に長い道筋だったろうと思います
厳木までは 現在の道筋だと20数キロになります
さてさて どこの出生地の人だろうか
古代のロマンに馳せてみましょう
「佐用姫の素性(すじょう)について、『肥前風土記』(713年)の「松浦の条」によれば、「・・・即チ、篠原村ノ弟日姫子(おとひめこ)ヲ娉(つまどい)ヒテ婚(まぐわ)イヲ成セリ。日下部(くさかべの)君ノ祖(おや)也。容貌美麗(かほきらきら)シク特(こと)ニ人間(ひと)ニ絶(すぐ)レタリ。・・・」とあり、名門日下部氏の娘でとても美人だったそうです。
この『風土記』(713年)では、弟日姫子、その後の『万葉集』(~760年)以降では、佐用姫になっています。」
古文書の篠原村から考察すると
(1)の厳木が本命か ?
しかし ・・・
佐用姫は名門日下部(くさかべ)氏の娘で
とても美人だったと書かれています
近年 西九州道路の建設に伴う発掘調査で
日下部氏に関する木簡が出土しました
(3)の原(はる)と言う場所です
出航地に近い この地の原に日下部氏が居たのは
事実のようです
出航地も近いし
私的推測によれば
原(はる)は篠原が変化して訛ったもので
この地に篠原村が存在したのかも知れない
狭手彦も きっとこの地に滞在したのではないだろうか
皆さんは どう感じられるでしょうか
謎です
by takasago1699
| 2018-11-16 12:34
| 散策
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